史的唯物論とか唯物史観とかでいわれるように
下部構造が上部構造を決定している、または大いに規定す
るというのは本当のことだと思う
現代で下部構造といえば
私の仕事柄から言ってそれを重視しているのかもしれない
が
国境を超えて仕事が行き来して情報が行き来する、実際の
交通と情報交換の両者の発達だろうと思う
世界は昔よりも狭くなり
他人はやや近い人間となり
情報は大量に常時流れ続けている
物質経済から金融経済に大幅に動き、しかし再び物質実体
経済の立て直しが志向されている
非常に自由なようでありながら
非常に巧妙に統制されて支配されている
いびつなマスコミがいびつな社会精神をつくり、それが個
人の精神にも及ぶ
個人として強い精神は生きられるが、個人として弱い精神
は生きるのが難しい
とりあえず閉じこもることになる
ここまではとりあえず国家単位での出来事で
日本で言えば、江戸時代までは藩幕体制の中で生きるよう
に精神を調整していたわけだ
殿様への忠信など
明治以降は国家への忠誠ということで
なるほど交通と情報通信の発達に見合った程度の変化なの
だろう
途中で敗戦に伴い民法が改正されて家族のあり方が変わっ
たし権利義務の考え方も
天皇から許された権利ではなくて天賦の基本的人権という
ものから発想して
当地権力に権利を付託して、国民としての義務も負うとい
う流れだろうと思う
自民党の憲法草案は基本的人権や国民の義務に関して、や
はりなんというか、フレーバーとして、
天皇が国家の中心で、国民は天皇=国家に対して義務を負い
、そのかわりとして権利を与えられる、
そんな面があるのではないかと、ちょっと想像してしまう
それはたとえば、共産党に入るなら、この義務とこの権利
があるとか
創価学会に入るならこの義務とこの権利があるとか
そのような、ゲゼルシャフトへの参加許可のようなものに
近い感じがする
医師会に入れば、会費はいくら、権利は何で、義務は何、
会費を何のために使うかといえばこんな感じです
というようなもの
憲法は、自分の意志で参加するしないを決めてくださいと
いうようなものとも違って、
そこに生まれたからとりあえず入るよね、親も親戚もそう
だし、
まあ、成人したくらいに考えがあって、別の国の人になり
たいというなら、それも構わないけれども
という程度のものなのだろう
統治権力の正当性を定義し、それはどんな目的のために存
在していて、何が許されているか、
何が許されていないかを決めるものが憲法だろう。
つまり、市民(という憲法制定権力)が統治権力を定義し制
限するものである。
ここでは、統治権力は、権力制定者である国民によって選
挙された物によって、またはそれらのものが任命した物に
よって、構成される
つまりは、憲法は、国民が自分たちの創りだした、自分た
ちの一部に向かって命令しているものといえる。
そうであれば、国民への命令を書いたっていいようなもの
だが、
それは形としてみっともないし、
民法でも刑法でも書き込めばいいだけのことで、
そんなものを憲法に書くという事自体が整合性に欠けるの
で、エレガントではないことになる。
そして、自分たちが自分たちに向かって、義務を課したり
、命令したり、懲罰を課したりというのは、
やはり形としてはおかしいだろう。
そこにあるのは、自分たちがその他の人たちに命令すると
いう、明治憲法の枠組みなのだろうと思う。
あまり深い考えもなく、田舎のおじさんおばさんに受ける
ように書いてみたというだけなのだろう。
その意味では、共産党や創価学会や医師会の入会文書と似
たようなものだろうと思う。
一方で、近代立憲主義のことも充分に承知しているが、
とりあえず票になる憲法草案を作ったということなのだろ
う。
ほんとうに良い憲法草案が、一般市民に支持される、とい
う程度に、民度の成熟を図るための教育が失敗していたと
実証されているわけだ。
海外派兵をして集団的自衛権を元にして戦争するために自
衛軍を作りたいのだというのは誤解で会って
あくまでも近隣諸国が間違いを起こさないように抑止力と
なるということらしい
どこか遠い国の日本企業の活動を守るために出動して、他
国の戦力に襲われた時には、
撃退するなんていうことはいまは考えていないですよなど
と言うらしい
でもまあ、2/3を1/2に変えることでそんなに快感が得られ
るわけもないだろう
心配しなくてもいい、いまの自民党はそんなことはしない
、と石破氏などは言っているが
やらないのならなぜ、改正したがっているのか、全く理解
できない。
そんなものいじっていないで、もっと前に、緊急の課題が
あるだろうと思う。
福島は憲法の後回しというのでは話がおかしい。
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