精神病になったとしますね
気持ちをわかってほしいと思いますね
そして病気を治して欲しいと思いますね
その場合、病気を分かってくれるというのと
診断、治療が正しいというのとは、別のことのようなんですね
むしろ極端に言えば、矛盾する要求なのかと思う面がないでもない
もちろん共感能力の高い人が診断と治療に当たれば
それがいいのだろうけれども
一人ひとりの患者さんにきちんと共感するというのは
個人の感情の全量から見ても、無理があるのではないかと思うのだ
そして「わかってほしい」「分かってもらえた」という内容についても、
様々な人がいて、「分かる」ということの内容は複雑多岐であり、容易な話ではないと思う
それよりも、診断と治療のほうが、定式化された仕事にやや近い感じがする
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風邪を引いた場合に、治療者の共感の深さを、患者が求めることはないだろうと思う
骨折もそうだろうと思う
癌になった場合は、共感が必要だろうと思う
精神病の場合は、共感するには、ある程度病的な部分を共有するのでなければ、共感は難しいとの議論もある
例えば、人間の精神を、健康部分と不健康部分とに分けて、その健康部分に共感していくるのならばできそうであるが、
患者さんの要求はそれだけにとどまらない
不健康部分にもやはり共感してほしいものなのだろうと思う
それならばいっそのこと、二人組精神病のようになって、影響されて治療者が一時的で可逆的な精神病状態になれば、
精神病者としては、よく理解されたと感じるのかもしれない
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しかし、そのように考えて見たとして、共感することがどれだけ治療的かと改めて考えれば、
共感は足りないけれど、腕は良い医者だという場合も成立しそうである。
これは学校教師と似ていて、生徒が勉強がわからないという苦しみを共有できる教師が良い教師なのか、
自分は最初からよく分かっているから、わからないということも最終的な苦しみは分からないけれども、
教え方ならば、うまい教師が、良い教師なのか
まあ、病気の苦しみといい、勉強がわからない苦しみといい、こうした粗雑な言葉では表現できないくらい
それぞれの事情があるのだろうから、苦しみがわかるという言い方も傲慢であるような気もする
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分かってもらえないので大変不満だというのだが
治ればそれでいいではないかとの意見も多い
治してもらうことよりも
分かってもらうことのほうが大事なのだと気づいて
そこから病理の解剖が始まる