“ 新人の頃働いていたリハビリテーション病院に交通事故で脊髄を損傷し、下肢機能全廃の二十歳そこそこの男の子が入院してきた。 事故から間がないにもかかわらず、妙にさばさばとした明るい男の子で、入院時の機能測定をしたPTが「まだ機能回復が望めると思っているのかもしれませんね」と言っていたが、本人は「もうこれ以上よくなることはないと知っている」と、やはり元気にわたし達のアナムネに答えていた。わたし達はその明るさになんだか違和感を感じていたのだが、彼はまったく泣き言も言わずリハビリにも熱心で、自室でのトレーニン

新人の頃働いていたリハビリテーション病院に交通事故で脊髄を損傷し、下肢機能全廃の二十歳そこそこの男の子が入院してきた。
事故から間がないにもかかわらず、妙にさばさばとした明るい男の子で、入院時の機能測定をしたPTが「まだ機能回復が望めると思っているのかもしれませんね」と言っていたが、本人は「もうこれ以上よくなることはないと知っている」と、やはり元気にわたし達のアナムネに答えていた。わたし達はその明るさになんだか違和感を感じていたのだが、彼はまったく泣き言も言わずリハビリにも熱心で、自室でのトレーニングも欠かさず、他の患者とも仲良くやっていける、本当に「いい患者」だった。まだ若いし、これからの自立した生活に必要な準備を万端整えてから退院かと思っていたら
「必要最小限のことでいいんです」
と言って、自己導尿(脊髄損傷の度合いが高いと自力での排尿コントロールが難しくなるため、定期的に自分でカテーテルを入れて排尿しなくてはいけない)の手技をすぐに教えてくれとわたし達にせがみ、数回の指導で手技を覚えた頃に半ば強引な形で自主的に退院していった。
そして彼が車椅子スポーツを専門にしているトレーニング施設に行ってしまったとソーシャルワーカーから後で聞いた。そのときわたしは「自分はただの普通の人間だったが、事故にあって車椅子生活になったことでパラリンピックに出ることができるかもしれない」と何かのときに彼が言っていたのを思い出したのだが、それでも彼のさばさばした明るさに対する違和感は消えなかった。その数ヵ月後、検査下ろしで外来に下りたときに彼を見かけた。見違えるほど筋肉がついていて驚いた。しかし彼は数日前から40度近い発熱が続いていて、そのために外来受診に来ていたのだった。診断は尿路感染、本人は渋っていたが入院することになった。
再度入院してきた彼は以前とはまったく変わっていて、わたし達とは目もあわせようとせず、口もきかなかった。数日続いた熱のせいで消耗しているのかもしれないと思っていたのだが、時々病室から付き添いの母親を怒鳴りつけ、物を投げつけているらしい音が聞こえてくることがあった。そして頻繁に下肢のしびれと痛みを母親を通して訴えてくるようになり、かなり強めの鎮痛剤を使うようになったのだが、痛みの訴えはやまなかった。ある夜中のラウンド時に彼の部屋から叫び声が聞こえたので、夜勤者全員で慌てて病室へ走った。想定する中での最悪の事態が起きているのではないかと思ったからだ。真っ暗な部屋の中で彼は大声を上げて泣いていたのである。どうしたの?足が痛かったら痛み止めの薬持ってくるよ、と聞いてみたら違うんだ違うんだと叫びながら彼はわあわあと泣くばかりだった。
彼が受傷した交通事故は、友人達と遊びに行った帰りのことだった。その事故に遭った中で、何人かは助かり、そして何人かは亡くなった。看護学分野ではこういった予期し得ない出来事によって身体的、心理社会的に安定した状態を脅かされることを状況的な「危機」と呼んでいて、この「危機」に適切に介入することが「危機」の受容(その後の回復)に大きな影響を及ぼすとされている。「危機」の受容段階に関してはいくつかのモデルが提唱されており、キュブラー・ロスなんかは医療には関係ない人達の間でもよく知られているのではないかと思う。脊髄損傷に関してはフィンクの危機モデルが活用されることが多い。彼の場合も事故直後からこのフィンクの危機モデルに基づいた対応を前院ではしていたのだが、あるとき面会に訪れた事故とは無関係な知人が励ますつもりか「死んじゃった○○くん達の分も頑張って生きようね」と不用意に伝えてしまったらしい(サマリーに書かれていた)。一足飛びに機能障害を受容し、次の人生のプランを積極的に実行しているかのように見えた彼の心の中は、何ヶ月もずっと事故直後の「衝撃」期のままで抑えられていて、今やっと次の「防御的退行」に入ったのか、とこの先彼の進む過程の長さを思い、最初の段階でつまづいたことの大きさを実感した。