通貨とは、一言で言うならば「国力」です。通貨が安くなることは経済的な国力が弱くなることと同じです。本来であれば、円安と円高のどちらの方が日本にとって良いのかという問いの答えは明らかで、議論の余地はありません。  では、なぜ日本は円安を喜ぶ傾向があるのかというと、様々な誤解が浸透しているからです。

明快な議論、採録。そしてこのような基盤の上に議論を進めるべきだ
 
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「アベノミクス」の影響で、円安が進んでいます。日本国内では円安を歓迎する声も聞こえてきますが、円安は日本経済や日本企業にとって本当に良いことなのでしょうか。私は、歓迎論の多くは誤解に基づいたものだと思います。1つひとつ説明していきましょう。
 経済学には「交易条件」という概念があります。交易条件とは国際貿易における商品の交換比率のこと。輸出品1単位と交換に入手できる輸入品の数量がどれくらいあるかを示します。為替レートは交易条件の変動と密接な関係があります。自国の通貨が安くなると、同じお金で買える輸入品の数量が減ります。つまり円安とは、交易条件が悪化することにほかなりません。国全体として見た時には明らかに不利です。
 通貨とは、一言で言うならば「国力」です。通貨が安くなることは経済的な国力が弱くなることと同じです。本来であれば、円安と円高のどちらの方が日本にとって良いのかという問いの答えは明らかで、議論の余地はありません。
 では、なぜ日本は円安を喜ぶ傾向があるのかというと、様々な誤解が浸透しているからです。最大の誤解が「日本経済は輸出に依存している」「日本は貿易立国である」というものです。実は、過去のどの時期を見ても、日本経済が輸出に依存していたことはありません。常に内需が中心で、輸出は補助的な役割です。ほとんどの経済学者が「日本経済は輸出依存型ではない」と言っています。
 例えば戦後の高度経済成長期。日本は輸出ではなく、内需主導で成長しました。「海外の高いモノを買う代わりに、国内で代替のモノをつくり、輸出できるようにする」ことが、戦後、日本の目標となっていたのは確かですが、輸出によって経済が回復したたわけではありません。
 目標に向かって努力した結果、日本企業は海外と同じようなモノを作れるようになり、それが内需を喚起して経済成長の要因となりました。そもそも、高度成長を遂げた国のほとんどは内需が中心で、まさに教科書通り、日本も内需中心で高度成長を達成しました。
 日本が輸出に過敏になったのは、オイルショックを経た、1980年代のことです。この時期、日本は内需主導の経済から、輸出をうまく利用する経済へと変わっていきました。景気循環の「谷」にある時、生産した製品をさばくために、輸出を調節弁として使うようになったのです。
 1ドル=360円の固定相場制の時代には「国際収支の天井」が存在しましたが、73年に変動相場制になってその制約はなくなり、国内の景気が悪い時に輸出を活用するようになりました。
 日本企業には長期雇用が浸透していたため、社員の解雇は容易ではありませんでした。また、戦後の50年代に積極的に投資してきた設備もありました。人材と設備。この2つを有効活用し、生産率を維持するため、日本企業は採算割れも厭わず、積極的に輸出しました。ダンピングの問題などが生じたのはそのためです。
 90年代、バブルが崩壊し、需要が極端に減り、日本企業は構造危機に陥ります。後に日本銀行前総裁の白川方明氏が述べたように、「失われた10年」は過剰設備、過剰雇用、過剰債務という「3つの過剰」を整理していくプロセスでした。
 ところが、日本企業は整理に伴う痛みを和らげようと抵抗します。設備の稼働率を落とさず、内需が減った分を輸出で補おうとしたのです。輸出に過分な負荷がかかり、日本経済は輸出依存だと決定的に思い込むようになってしまいました。
「輸出に依存している」という誤解
 このような経緯で、日本経済は輸出に依存しているという誤解が生まれました。同時に、通貨を安くして輸出を維持したいという気持ちが広がったのです。
 為替の原理を考えれば、自国の通貨が高くなるということは、同じカネで外国のものをたくさん買えるということですから、生活水準は間違いなく高くなります。日本で生産したモノを海外で売る際にも、高い価格で売ることができるのですから、ラッキーです。
 「安い価格でなければ売れない」からと、「通貨が安くなければならない」と思い込んでしまうのは、やはり誤解に基づいています。
 理論的には、安い価格で売りたいのならば、企業がその製品だけを値下げすればいいのです。通貨は市場に流通するありとあらゆるモノに影響してしまいます。安く売りたいモノだけでなく、本当は安く売りたくないモノにも値下げ圧力がかかってしまいますし、反対に買うモノは全部高くなります。通貨を安くして価格を引き下げるのではなく、値下げしたいものだけについてコストを削減すればいいのです。
 製品のコストは突き詰めると7割が労働コストですから、製品を値下げするには賃金カットが不可欠でしょう。
 しかし賃金カットを労働者と交渉して実現するのは簡単なことではありません。経営者にとってはしんどい作業です。賃金カットをせずに為替で調整してくれるのならばありがたいと思うようになります。企業努力で価格設定を変更すべきところを、通貨にその役を押しつけるようになってきたのです。
ギリシャは賃金カットで対応した
 ほかの国のケースを見てみましょう。ギリシャの経済が停滞し、輸出を回復させたいと思った時にはどうしたでしょうか。ギリシャの通貨は欧州連合(EU)加盟国のうち17カ国が共通で使うユーロですから、ギリシャ一国の考えで為替を調整することはできません。そこで、国全体で賃金を下げました。
 モノを輸出する際の価格を安くしたいからと通貨を安くすると、資産も安くなってしまいます。中国などの海外企業に日本企業の株を買いたたかれるということが必ず起きます。国全体で見れば、通貨で価格を調整するのは長期的には損です。通貨を維持したまま賃金を下げれば、買いたたかれることなく、モノを売ることができます。
 こういうことを言うと、「賃金を下げれば済むとは何事だ」と怒る人がいます。けれど、通貨が安くなれば、ドルベースで見た賃金も安くなるのですから、同じことです。通貨の下落は国全体で見れば間違いなく悪いということに目を向けるべきです。
 そもそも、かつて日本
は貿易黒字だったけれど、今は貿易赤字です。輸出と輸入を比較した時、輸入の方が多いのです。円安は輸入に際してコスト高になるというデメリットが生じます。
 原理的にも実際にも、通貨安で良いことなんて1つもありません。輸出競争力を回復しようと通貨に依存すると、輸出企業でないところまで被害を受けます。そうした企業も多いはずなのに、円安になって喜んでいる人が多いのは実に不思議なことです。
輸出企業へのシンパシー
 通貨が弱くなってみんなが喜んでいるのはなぜでしょうか。
 1つは、輸出企業にシンパシーを感じるからです。標準的な部品や製品を作っていて、世界の各地域にある工場とコストだけで競争している企業は円高で価格競争力的に不利になれば輸出ができなくなります。特に中小企業にとっては死活問題で、倒産、失業などの問題も発生します。政治家やメディアもこの手の話に飛びつきますから、心優しい日本人は彼らの痛みを自分の痛みと感じ、円安を喜ぶようになったのです。
 もう1つは、株価が上がっているからです。日本企業は円安になると株価が上がる傾向があります。ではなぜ円安になると株価が上がるのでしょうか。それにはいくつかの理由があります。
 第1に過去の経緯から、「円安=株高」というイメージが染みついていること。投資家はそれに条件反射的に反応します。
 第2に外国人投資家の投資が増えること。円安が進めばドル建てで見た時の日本企業の株価が安くなるため、外国人からすると買い時となるわけです。
 第3に企業収益が向上すること。なぜ収益が向上するかというと、製品価格に円安を反映させることで価格競争力が高くなり、輸出数量が増える効果があるから。現地の市場の状況や製品そのものの価値を反映した価格として、為替が変動しても価格を据え置く場合もあります。その場合には輸出数量は変わらないものの、利幅が増えます。
 また、海外の子会社が上げる収益も、円換算した場合、為替差益によって膨らみます。ただし海外子会社の収益が円換算で膨らむといっても、多くの企業は、儲けた利益を円に戻さず、現地でまた投資しますから、あくまで会計上の利益が膨らむという話です。
 現在、進んでいる円安局面では、まだ輸出数量が増える段階には達していません。為替レートが変動した際、その効果が表れるまでには時間がかかります。いわゆる「Jカーブ効果」と呼ばれるもので、従来の経済構造であれば、ゆっくり輸出数量は増えていくと考えられます。
 現在のところ、製品1個当たりの利幅が増えたこと、円換算した場合の収益が膨らんだことによって、2013年3月期の企業決算はストレートに改善しました。円安を喜ぶ人が多いのはこのような事情からです。
 ただ、2014年3月期に、さらに企業収益が良くなるかというと、それは企業の戦略次第です。円安を価格に反映させて、売り上げを伸ばすというやり方もあり得るし、利幅が増えた分を製品の仕様に反映させて顧客の満足度を上げるというやり方もあり得ます。これらの戦略が成功し、収益の改善傾向が続くのかどうかが、重要なポイントです。さらに、経済構造は今大きく変わっています。円安の分だけ価格を多少安くしても売り上げが増えなくなってきています。だから、いまや輸出増加はそれほどでもないかもしれません。