“子どもたちが授業で実際に書いた作文を日米で比較してみると、興味深いことが分かります。日本の教師は、意識する、しないにかかわらず、結果的に「綴り方」の伝統に則って、「自由に、思ったままを書けばいいんだよ」と励まして子どもに作文を書かせます。しかし、でき上がった作文は、どれも驚くほど似通っています。その一方で、一見自由な印象を受けるアメリカの小学校では、実は厳しい文章の「型」の訓練と、技術的指導や添削が行われます。その結果として生み出されるのは、各自が書く目的に応じて様式を選び、そこに個別の意見が主張され、

“子どもたちが授業で実際に書いた作文を日米で比較してみると、興味深いことが分かります。日本の教師は、意識する、しないにかかわらず、結果的に「綴り方」の伝統に則って、「自由に、思ったままを書けばいいんだよ」と励まして子どもに作文を書かせます。しかし、でき上がった作文は、どれも驚くほど似通っています。その一方で、一見自由な印象を受けるアメリカの小学校では、実は厳しい文章の「型」の訓練と、技術的指導や添削が行われます。その結果として生み出されるのは、各自が書く目的に応じて様式を選び、そこに個別の意見が主張され、ときにはさまざまな様式を組み合わせる多様な作文です。 ここには、「自由」を重視している方が結果的に「規範」にとらわれ、「規範」を重視している方が結果的に「自由」な多様性を生む、というパラドックスが見られます。型を知らずに「自由に書け」といわれても、いったい「何から」自由になればよいのか分かりません。その結果、「起こったことをありのまま書いて時系列で気持ちの変化をたどる」という書き方が逆説的に唯一の型になってしまうのです。”