トラウマが元でPTSDになり苦しんでいますという場合
はたしてそれがトラウマなのかどうかについては
昔で言う了解可能性の問題になる
戦争に行って何人も殺害し自分も殺されそうになった人が
今でも悪夢にうなされて苦しいというなら
たぶんそれはトラウマだろう
その場合にも内因性の病理が進行していないかを鑑別する必要はあるが
本来アメリカでPTSDが言われた時にはこのタイプのトラウマが念頭にあった
たとえば
友達に遠くから軽蔑の眼差しを向けられたのがトラウマになって悪夢にうなされる
というならば
トラウマと言うよりはなにか他の話ではないかと疑うことになる
しかしこの場合でも、その友人との関係がどうであったのか、
あるいは対人関係全般、さらには性格基盤、生活の環境などを含めて、
どの程度了解可能なのかを考えることになる
つまり重いトラウマから軽いトラウマまで連続して分布しているのであって
自分が嫌だと思ったことはなんにせよトラウマであり、病気の原因だと思っている人がいたとしたら、
むしろ、そう思っている事自体が、別の病理の証拠になっていると思われる
決して自己申告で決まるわけではない
複数の判定者が関与する場合があり、意見が割れることもある
そうなると了解可能性はどうなのかと問題になる
それを回避するために操作的診断で一致率が上がるよう仕組んでいるのだが
それほどうまくはいかない
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トラウマはたとえば骨折に例えることができる
交通事故で自動車が全損した場合、骨折くらいは起こっても当然だろう
一方で、道を普通に歩いていて急に骨折する人もいる
その場合にはむしろ骨に何か病気があるのではないかとか
カルシウム代謝の問題があるのではないかとか
体重が重すぎたのではないかとか
考えることになる
そしてその中間で判断が難しい場合があることになる
何れにしても外部からの衝撃の大きさは連続体として強度に幅がある
その衝撃を受ける側の問題もあるので
その点を考慮すると
歩いていて骨折したのも無理もないと「説明」されることになる
誰の責任が何%とかは法律的には問題になるだろうが
治療としてはまた別の話である
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治療者の脳が患者の脳を理解することは
治療者の脳が患者の骨を理解することと同じだと発想する人もあり
違うと発想する人もあると思う
柔軟に幾つもの視点で考えることが必要だと思う
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その人の考えや感じ方の背景となるものがあるだろう
どのような文化グループに属しているかで常識も随分違う