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逆に言うと、温泉や銭湯というのは、一見の客であっても、「彼らは粗相などしないはずだ」という前提条件をおいてはじめて成り立つサービスなのである。何故そんなことを信じられるかといえば、ぱっと「親からそう教育されているから」という単純な答えがひらめくのだが、これだけでは「なぜそういう教育を受けるのか」が分からない。親が銭湯に行く子供に作法を教えるのは、少なくとも無意識のうちには、子供が粗相をすれば親の教育が疑われ、ひいては自分の評判に傷がつくことが分かっているからである。その意味で、銭湯や温泉というのはまさにギルド社会を前提としたサービスなのである。
元々、銭湯には地元の人間しか来ないものであった。桶にタオルとシャンプーを入れて山手線に乗る馬鹿はいない。そして、近所の人間も利用する銭湯で粗相をすれば評判に関わる。それこそ、家の外へ出るたびに周りでひそひそと噂話をされかねないのだ。だからこそ、彼らは粗相をしないよう自らを律し、また子供をそう教育するのである。そして、そのようなシステムが機能しているからこそ、銭湯の番頭は「客はみな信頼できる善い人間である」と信じられるわけだ。つまり、性善説というのは人間の行動原理ではない。評判でメンバーの行動を律するギルド型社会の社会現象なのだ
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