“Q.子供の日によく歌われている歌で「柱の傷はおととしの5月5日の背くらべ」とありますが、あれはなぜ「おととし」なのですか?どうして去年、兄さんは測ってくれなかったのですか?とても気になります。 (香川県・ゆっち)
A.童謡「背くらべ」は、作詞・海野厚(うんのあつし)、作曲・中山晋平。1919年(大正8年)に雑誌「少女号」に詩が掲載され、曲として発表されたのは、1923年(大正12年)発売の「子供達の歌・第3集」。ちなみに、文化庁と日本PTA全国協議会が「親子で長く歌い継いでほしい」として、 2006年から2007年にかけて選定・発表した「日本の歌百選」のうちの一曲。 作詞した海野厚は1896年(明治29年)静岡県豊田村曲金(現在の静岡市駿河区)生まれ。旧制の静岡中学卒業後、早稲田大学に入学。童話雑誌「赤い鳥」に投稿した作品が北原白秋に評価されて童謡作家となり、中山晋平らと一緒に「子供達の歌」を出版。「やっとこやっとこ、くり出した…」で始まる「おもちゃのマーチ」も作詞。1925年(大正14年)結核によって28歳の若さで他界。 「背くらべ」の歌詞は、端午の節句に兄に背丈を測ってもらった弟の視点で描かれているのですが、実際は7人兄弟の長兄である海野厚の17歳年下の末弟の視点とのこと。つまり「兄さん」にあたるのが、海野厚。 そして「柱の傷」が「おととし」なのは、早稲田大学在学中で、東京に住んでいた「兄さん」こと海野厚が「去年は静岡の実家に帰省できず弟の背丈を測ってやることができなかったから」とされているのですが、その理由は、結核の治療のため、恩師の追悼会に出席していたためなど諸説あるようです。 海野厚の母校であり「背くらべ」の歌碑が建てられている「静岡市立西豊田小学校」のホームページによると…「19才で上京した厚は病弱なため、大正8年(23才)を最後に帰郷していない。そんな中、『帰郷できず、自分も寂しいが弟も寂しがっているだろう』という思いの中で作詞したものである。故郷静岡で過ごした昔、毎年5月5日になると弟たちの背を測り、その成長をお互いに喜んだ時のことを思い出して作詞したと言われている」とのこと。”