1946(昭和21)年8月「映画春秋 創刊号」伊丹万作。
「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。
みながみな口を揃えてだまされていたという。
それは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていた
わけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、
もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なく
くりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたり
だまされたりしていたのだろうと思う。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に
我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、
だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、
隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは
区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、
あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営む
うえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々で
あつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、
半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。
だますものだけでは戦争は起らない。
だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中に
あるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、
思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるように
なつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが
悪の本体なのである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者に
ゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も
何度でもだまされるだろう。」