救いが欲しいなら預言者か救世主に聞け、と語ったのは『職業としての学問』のマックス・ウェーバー。
学問がこんにち専門的に従事されるべき「職業」としてもろもろの事実的関連の自覚および認識を役目とするものであり、したがってそれは救いや啓示をもたらす占術者や予言者の贈りものや世界の意味に関する賢人や哲学者の瞑想の産物ではないということは、もとよりこんにちの歴史的情況の不可避的事実であって、われわれは自己に忠実であるかぎりこれを否定することができない。そして、もしここにふたたびかのトルストイがあらわれて、学問がそれをなしえない以上は、例の「われわれはいったいなにをなすべきか、またいかにわれわれは生きるべきか」という問い – あるいは今夜ここで使われたことばでいうならば「あい争っている神々のいずれかにわれわれは仕えるべきか、またもしそれがこれらの神とはまったく違ったものであるとすれば、いったいそれはなにものであるか」という問い – に答えるものはだれかとたずねたならば、そのとき諸君は答えるべきである。それはただ予言者か救世主だけである、と。(マックスウェーバー, 尾高邦雄『職業としての学問』, 岩波文庫, 1980, p65-66)
予言者や煽動家に向かっては普通「街頭に出て、公衆に説け」といわれる。というのは、つまりそこで批判が可能だからである。これに反して、かれの批判者ではなくかれの傾聴者にだけ面して立つ教室では、予言者や煽動家としてのかれは沈黙し、これにかわって教師としてのかれが語るのでなければならない。もし教師たるものがこうした事情、つまり学生たちが定められた課程を修了するためにはかれの講義に出席しなければならないということや、また教室には批判者の目をもってかれにたいするなんぴともいないということなどを利用して、それが教師の使命であるにもかかわらず、自分の知識や学問上の経験を聴講者らに役立たせるかわりに、自分の政治的見解をかれらに押しつけようとしたならば、わたくしはそれは教師として無責任きわまることだと思う。(マックスウェーバー, 尾高邦雄『職業としての学問』, 岩波文庫, 1980, p50)
要するに、こんにち一部の青年たちが犯している誤りは、たとえば以上のような議論にたいして、「それはそうだろうが、しかしわれわれはただの分析や事実の確定ではないなにかあるものを体験したくて講義に出ているのだ」というふうに答えるばあい、かれらは講義者のなかに、そこにかれらにたいして立っている人ではない別のある人 – つまり教師ではなく指導者 – をもとめていることにあるのである。ところが、われわれが教壇に立つのは教師としてのみである。教えることと指導することとは別の事柄であり、そしてこのことは少し考えてみればすぐわかることである。(マックスウェーバー, 尾高邦雄『職業としての学問』, 岩波文庫, 1980, p57-58)