先日アメリカの小説を翻訳している人から相談を受けた
現在翻訳中の、母親と息子の対話の形の小説で
母親が「マインドフルネス」にまつわり、息子に語る部分があるという
翻訳はカタカナで「マインドフルネス」でいいのか、と質問
「そもそもなぜ名詞形にしてマインドフルネスなのか、マインドフルで充分わかる気もする」など
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マインドフルネスという言葉がこのようにして一般小説の中でも格別の解説もなしに語られる言葉となったことは
不思議な感じもする
簡単に言うと「上の空の反対」
マインドレス、ケアレス、アテンションレスの反対
自分が今どこにいて、何をしているか、何をしようとしているか、まわりにはだれがいるのか、
体温と気温はどうか、風は、天気は、持病の関節痛の具合は、
そばにいる大切な人はリラックスしているか、
などなど、「いまここ」について、上の空にならず、意識を振り向ける、注意を向ける、そういうこと
漢字の言葉に翻訳するのはうまくいかないような気がする
瞑想(コンテンプテーション)の世界に近くて
坐禅で頭がスッキリと澄んで明るくなった状態に似ているだろう
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マインドフルネス・トレーニングがあって
これは診察室でしばしば行う
自分の身体の状態、精神の状態について、注意深く把握する訓練である
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ちょっと考えると、不安は忘れたいし、不快感からは逃れたい、
別のことを考えて注意を逸らしたい、という流派もある
しかしマインドフルネスはそうではなくて
現在の不快や不安を含めて、それを大きく包み込むようにして、現在のすべてを知るように努める
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結局翻訳は「マインドフルネス」として、訳文中で少しずつ説明するとの方針になった