他人の立場に立ってみる

他人の立場にたってみる、とよく言われる
集団で暮らしている時にそれは基本的な完成でありテクニックである

しかし、他人の立場に立ってみて、「同じに感じろ」とは言っていないはずだ
同じ環境に投げ込まれて、違うように感じることもあるはずだろう

ここでは軽い決定論があって
完全に同じ立場に立てば同じ事を考えて感じるはずだし
違う感じ方があるならば、それは、完全に同じ立場に立っていないのだ
とするものだ

当然、そんなはずはない
ガンジーがあなたと同じ立場に立った時にあなたと同じに感じるはずはない

またひとつは、生育歴も含めて、完全に同じ環境に置かれ、更にはDNAも含めて、同じ環境に置かれたら、
同じ感じ方をするはずというもので、これは環境とDNAによる決定論で、
すべての犯罪も過ちも免罪するものになる
ここまでの議論をすると空想的であるし現実はDNAにも生育歴にも差異があり、
相手の立場に立ってみると言う言葉はそこまでの規模でのことを指しているのではない

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他人の立場に立って見ることは非常に重要である。
それは間違い無いと思う。

多くは被害者が被害感情を訴えるときに使うのであるが、
多くの人の中には、相手の立場に立ってみて、公正に考えて、やはり、
被害感情の程度には間違いがあると判定する場合があるのである

それを「相手の立場に立つ能力の欠如である」と批判するのは、
その人が、まさに、「相手の立場に立つ能力が欠如している」ことの証拠になるだろう

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一般に弱者による論理は、同情誘発的な側面もあり、反対しにくいようにできている
面白いことに、弱者は、「弱者は救済されて社会の結果としての平等が実現すべきである」との論理を
貫徹することによって、かなりの程度に勝ち進むことができる

そして気がつくと自分はすでに弱者ではなくなっているのである
そのときに作戦を変更して静かに市民社会に埋もれてゆくのがいいのか
あるいはさらに弱者として装って突き進むのか
後者の場合は実際には強者になっているのだからほころびが見えてくるだろう

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共感の欠如というのはとても広く存在するとても重い病気であるが
適切な名前もなく適切な治療もない

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何に共感するか
靖国の英霊
次期オリンピック招致
などという人もいるだろうな