「体験したこと」は「解釈を待つ絵」に相当する

人間が何かを体験するとはどういうことなのだろうと考える

常識的に言えば
体験する主体としての私が確実に存在して
体験される客観物が確実に存在する
つまり私が絵としてのモナリザを観るという体験である
私がルーブルに行けば成立する

だが果たしてそうなのだろうかと昔から言われている
たとえばマルチン・ブーバーなど

私が時間を通じて確実に存在していることなど
妄想かもしれない
またモナリザがルーブルにあることや
そのモナリザがどのような絵であるかについては
本当のところはよくわからない
客観的実在とは何であるかがどこまで議論しても困難である
議論してもお金にもならないので適当なところで切り上げるしかない

そのようにしてみると
主観としての私が実在することと
客観としてのモナリザの絵が実在することと
「私がモナリザを観た」ということの
三者を比較してみて
比較的承認が得やすいのは
「私がモナリザを観た」という「こと」ではないだろうか

「私がモナリザを観た」という「こと」が存在したとして、
その両端に、私という主観と、モナリザという客観が分離して発生するのではないか

ひとつの「こと」のあるごとに
私は自分という主観を確認し続ける
そしてそれを繋げ合わせてぱらぱら写真のように「自分」を「構成」しているのだろう

私がモナリザを「構成」するときも多分そのようにしているのだろう

私とモナリザならば複雑さは半分であるが
私と他者であれば二倍の複雑さになる

私は私と相手を構成し
相手は私と相手自身を構成する

ーーー
モナリザの話が出たので
絵を見るということを考える

たとえば絵には「隅田川の花火」が描かれているとする
しかし実際には絵の具の塊であって解釈の幅は広い

そこにある絵は絵の具の塊であるが
解釈を待つ何者かである

私という主観が解釈をして
風景だ、花火だということになるのだが
そんなものは心のなかに浮かぶことでしかない
存在するのは絵の具の塊である

ーー
「体験したこと」は「解釈を待つ絵」に相当する
と思うのだがどうだろう

ーー
もちろん、『「解釈を待つ絵」を観る体験』という入れ子構造になるので
それが何重構造であるかを自覚しつつ進まなければならないのだが

しかしそのように多重構造にできるということが
人間の意識の発生でもあり
特質でもあり
さらには本質であるという議論はある