坂本龍一氏が反原発集会で「電気より人の命が大事」と発言して
電気の話ではなくて原発、原子力の話でしょう、これだと反電気になってしまうとか
命を言うなら、厳密に放射能で死んだ人はいないですとか
あれこれ
電気を原子力に訂正して、
原子力や経済発展よりも命といえば少しいいと思う
命というのも人の命だけではなくて
動物の命でもあるし、地球の命でもあり、環境でもあり、
先祖から受け継いで子孫に伝えたいもの、壊れやすいもののシンボルでもある
だから
原発的なものと反原発的なものと、どちらがいいですか
われわれは選ぶことができるのですよ
と言っているのだろう
例えばの話、
精神障害者を会社の内部に雇用してみんなで助けあって生きようと言っている会社と
精神障害者は目立たない形で排除しつつ経済競争力を高めようとしている会社と
どうなのかと考えてみれば良いのではないか
市場主義経済で勝ち残るのはどちらだろう
経済戦争に負ければみんな生活できないと言えばそのような側面もあるのだろう
だから文学として
原発的なものと反原発的なものとどちらを選びますかと問いかけが発生する
もちろん答えはないし
曖昧主義でいいのだし
審議会を設置して諮問を待ちましょうといえばいいのだし
その一方で文学的に芸術的に悩んでみせればいいのだ
ローンと子育てで忘れられる
人間はすべてを忘れられるのだ
ーー
命は大事だなあと思う瞬間はあるが
別の瞬間には福島の人の命とアフリカの子供の命と
異教徒の命と無神論者の命といろいろな命があるという暗黙の前提に立ってしまうとか
またタバコでどれだけの人が死んでいるか
自動車でどれだけの人が死んでいるか
地球温暖化でどれだけの人が死ぬか
その「数字」に比較して原子力平和利用における「数字」はと
比較を始めて、命を見事に数字にしてしまう場合もある
命を「数字」にして、「比較」するのは、なんとも野蛮で、生存力が強く、
たぶんいつまでも生き残る思想だろうと思う
進化論的に言えば生き残る、強い、正しい、そういうことだろう
いつでも一番野蛮で残酷な種族が生き残ったのである
我々はその子孫である