翻訳の言葉を考えて
たとえばoftenをいつもしばしばと訳すのは芸がないので
いろいろと場面に応じて訳し分けたりするのだけれども
考えなおしてみて
oftenはいつでもしばしばと決めてしまえば
読者はしばしばを日本語の意味で解釈しないで
これは英語のoftenと解釈すれば
とても便利なのだと思った
オフンと訳してももいいのだと思う
そんな日本語は嫌だというならそれもいいけれど
しばしばとは頻度が高いことで、などと考えていないで
このしばしばは英語のoftenの意味だなと思うことで
充分なのではないかと思う
ぴったりの日本語がないときに造語して何かの言葉を充てたりするのも
言語を思い出させるのでそれは誤解のない方法だと思う
既存の日本語だと、初学者の場合、その日本語の意味に引きずられることもあるだろう
勉強している人は、この言葉は英語のあれだなと見当がつく
agitation などと言う言葉では
辞書では不穏、興奮、焦燥などといろいろと載っているのだが
激越と訳すと、これはagitation depression のときの言葉だなと見当がつく
激越を鎮めるといえばうつ病なのに興奮しているという奇妙な、一種の混合状態を
鎮めるという意味で
単に不穏でもないし興奮でもない
不穏や興奮は、シゾフレニーでもパニック障害でも認知症でも起こる、一般的な語彙である
激越というだけでそれはagitationのことでしかもdepressionのときの言葉と
だいたい決まっているので話が早い
しかしその事は日本語辞書にはないだろうし
漢字の意味をたどっても分からないと思う
広汎性とpervasiveの関係もそんなものだろう
広汎性の文字から何かを分かろうとしても不正確な話でpervasiveのことだと
一旦理解して、そこからだろう
便利といえば便利なのだが
初心者がささっと理解するには少し不便だろう
今後この方面で仕事をするというのでもなければ
ささっと理解して、結局どうすればいいのかを知ればいいように思う
そんな場合に、このような翻訳後のメカニズムなどは必要なのだと思う
たとえば批判という言葉があるが
これはカントの場合はKritikのことで
別に非難することではなくて、厳密に考えるという意味だけれども
カントの文脈で批判というとクリティークの意味でというのは
業界の決まりになっているので
批判的意見と好意的意見の対比としての批判ではないのだと
分かる仕組みになっている
純粋理性批判といっても純粋理性を悪く言っているのではなくて
純粋理性というものについて厳密に考えてみるという意味で
それを昔から批判という日本語を充てる習慣になっているというだけである
なにか日常用語としては決して使わないような言葉を充てるのも方法だったような気もする
しかし一般初心者が誤解するとしても最初から挫けてしまわないようにする働きもあるのだと思う
たいていとしばしばと頻繁にとよくあることだがと多くの場合と
日本語としても差があるように思うが
その言葉の網の目と
英語のoftenとかfrequentryとかalwaysとかmostlyとかの
意味の分担の網の目は違うのだろうから
そのあたりもややこしい
性格障害、人格障害、のあたりもパーソナリィ障害でまとめようというらしい
性格異常とか人格異常はまたなにか違う意味のにじみがあるようだ
シゾフレニーという言葉は
どこの国でも変化なく使っているのに
日本でだけ用語の変更があって
すると検索の場合とかで不都合が生じる
シゾフレニーを多重人格と混同しているのは日本だけではなくて
アメリカでもイギリスでもあるようで
混同しないようにと啓蒙書には記述がある
疾病と障害の違いは大切なのだが
disease、disorder、impairment と並べると
やはり言葉の網の目の違いを感じる
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漢字には歴史があり
歴代の王朝で読み方が違い
意味も違うことがある
同じように現代の日本語の言葉を英語の何かの単語に強く結びつけて
意味を拡張することも行われていいことなのではないかと思う