私たち人間はすべてを経験することはできない
世界の一部を体験するだけだ
それはちょうど点だけを知り
それを想像力でつないで線にして
さらに想像力で面にして
さらに想像力で色をつけて
そのようにしてミッキーマウスを知ることに似ている
私たちはディズニーランドで
ミッキーマウスを体験するのだけれど
自分が体験したミッキーマウスの体験の質ははたして本当に
ミッキーマウスの本質なのだろうかと
いつも疑問がある
視力にも聴力にも差があり
色彩感覚にも差があり
感覚の背景となる経験にも差があり
それでもやはり
あの時のミッキーマウスは可愛かったとか
あの時ミッキーをぎゅっと抱きしめて感激だったとか
語り合い通じ合うことはやはり不思議だ
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そのように共通の世界観を維持できるのはなぜだろう
ひとつには人間の本能が壊れていて
壊れている部分に学習により文化が埋め込まれるからだろう
もうひとつには
なかなか精密な複写装置が脳の内部にあるからだろう
世界を観察する意志があるかぎり
そして自分の間違いを訂正する能力があるかぎり
脳内の世界モデルは
世界そのものに近づいてゆく
生きるための、充分に精密な程度の、複写
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ミッキーマウスについていえば
かなり粗雑な複写でも生きるにはさしつかえないし
話が合わなくて困ることもない
だからミッキーマウスについて精密な複写を作る能力は発達していない
ミッキーマウスは人間の食べ物でもないし人間を捕獲する者でもない
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たとえばミッキーマウスの絵を描いてもらう
するとたいていは似ていない
しかしたいていは多分ミッキーマウスだと知ることができる
この場面で描くものはミッキーマウスかもしれないという先回りしての推測が
前提にある
かな漢字変換で言う推測変換のようなものだ
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ミッキーマウスの絵を描いてもらう時
観察対象をコピーする能力とペーストする能力を同時に試していることになる
たいていの人は
自分の描いたミッキーマウスが本物に似ていないと嘆く
コピーはできているのだけれども
ペーストができないと嘆いているのだ
しかしはたして本当にそうなのだろうか
人間が自分はコピーは出来ると思うのは当然である
自分が見たものしかコピーしないからだ
しかし見たものという時点ですでに歪曲がある
客観的実在そのものと
自分が見たものとの差を感知することができない
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絵画を鑑賞する場合
たとえばピカソのコピー能力とペースト能力を鑑賞しているのだけれども
ピカソのコピー能力がどういうもので
ピカソのペースト能力がどういうものか
知ることができるだろうか
http://konkokoro.exblog.jp/4157207/
さらに音楽の場合は
モーツアルト的変換装置を知ることができるだろうか
http://konkokoro.exblog.jp/4169007/
見るときに我々は自分の見方で見ることしかできない
その限りない制約をどのようにして超えることができるだろうか
まあ、超える必要もないのだけれど
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我々が認識しているのは点だけであり
点ををつないで線にして
さらに面にして彩色して
それを認識している
それを相貌化作用という
壁のシミが人間の顔に見えてしまう力である