葛藤モデル チェス盤のたとえ マインドフルネス

葛藤モデル
(コンフリクト、アンビバレントに関係する)
無意識を場とする葛藤もあれば
意識を場とする葛藤もある

無意識の葛藤は心的エネルギーを消費し、時に形をかえて症状うとして現れる
うつ病や身体表現性障害に至る

そんな葛藤なんてどこにもないじゃないかとの論もある
評価者が数人して共通する認定に至るわけでもないだろう
共通する認定に至るのは共通する教育を受けているに過ぎない場合が多い

とはいうものの
やはり葛藤モデルは説得力がある

それは、無意識の世界は知りようもないけれども、
意識の世界では葛藤はしばしば我々を悩ませているからだ

ーーー
そのように葛藤に翻弄される身ではあるけれども
葛藤は葛藤だとやや自分から離れて見つめることもできる

後輩の先生によれば
視点としての自己 という

チェス盤のたとえも彼は教えてくれた

チェス盤では黒と白が戦っている
しかしチェス盤そのものは戦いがどうなっても揺るがないで存在して戦いを見つめている

将棋でも囲碁でもいいのだけれど
かれはチェスが好きらしい

たしかに戦いが進行すれば疲れるし大変なのだけれど
しかしチェス盤も将棋盤も囲碁盤も
なんら変わるところなく存在している
安定したものである

ーーー
さてそのようなことを教えてもらって
改めて思うのだが
将棋の駒は多分、我々の欲動だろう
食べたいとか、偉くなりたいとか、楽をしたいとか、人によく思われたいとか、
自己実現したいとか、マズローの言ういろいろな欲動
それがある局面ではぶつかり合い、一方を諦めて、一方を実現する、
そんな様子をながめている自分がいるというのだけれど

葛藤している自分と眺めている自分とはどういう関係になるのだろう

欲動そのものが自分でないことは分かる
それは部分だ

欲動はしばしば思い通りにはならない
その場合の「思う」のはどの部分なのだろう

こころと自分が一致しないのだとフロイトは発見したのだけれど
ではどういう関係にあるのだろう

将棋の駒と将棋盤を離れて
脳そのもので考えるといいと思うのだが
脳には進化的に古い回路がまずあってそれは大変安定している
そしてその回路を組み合わせて命令のセットを発信する部分があって
それが進化的に新しい部分である
それが何段階あるのかよく分からない
単純な人は
二段階くらいでおしまいかもしれない
すると
いま手にしている2万円で何をするかというような
葛藤になる

もう少し複雑な人は
時間の要素が入る
今我慢して2万円を保存しておけば
将来もっと楽しいことが出来るのではないかと考えられる

新しい回路ほど壊れやすいので
例えばアルコールを飲むとその新しくて高級な回路が停止して
古くて原始的な回路が働くようになる
退行と表現してもいい

脳回路で考えると、
いま自分は、いくつかの原始的な回路の葛藤状態にあり苦しんでいる
その苦しみを感じて、また観察しているのは、上位の脳回路である
原始的な脳回路が一時的に跳ね回ったとしても
上位の高級回路は影響されないでいよう
というように安定化させることができる

それがマインドフルネスということだろう

ーーー
そのばあい、私とは何を指していて、心とは何を指しているのだろう
言葉の問題というのは定義と習慣の問題であって
詮索してもたいして実りのない場合も多いわけだが

こころとからだを含めた全体を自分と呼ぶのだろうか
私と自分は同じなのだろうか

pcがネットで繋がっているから圧倒的に便利であるように
私も他者と繋がっているから私なのだろう
そのような広がりも考えられる

そのあたりのことをHolismとか場の理論とかと名づけて
なにか議論するようになると
分かりにくくなる