万葉集の時代

万葉集の時代だとするでしょう

するとね、木の下で涼みながら、女性が部分を自分でいじって、両足を突っ張って
なにか果てているようなところを、男性は目撃するわけでしょう
べつにそういうことが恥ずかしいとかいけないとかの観念はないと思うんですね
ないない
で、目撃するのは、だいたい生活区域が重なっている人が多いと思うんですよね
だから嫁とおじいちゃんとかそんなことになるんでしょう
おじいちゃんの子供がまた生まれる
まあ、それはいいとして、そのような場面を見かけると、
自然に、いくときは女性も伸筋系を使うんだと男性が納得出来るように思うな
ところが最近の情勢では女性は下半身を屈曲したままでいっているので
何とも不自然
多分自分でいくとき女性の大部分は伸筋を思いっきり伸ばしている
いやいや、万葉集の話ですよ
歌がのびのびとしていると高校の先生が言っていたので
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するとですね
女性下肢伸展体位を研究する必要があるわけです
伸展筋を充分に伸展しないままだからリビドーの行き場がなくなる
そして抑圧が発生する
抑圧はいけないと言うので
屈曲はよくないんですよ
手足をのびのびと伸ばすことが基本です
それで、のびのび万葉集
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万葉集の一部には確かに
古今集以後の感覚とは違うものがある
古今集以後は恋愛は
自分にもどうしようもないもので
つらいもので
逢いたいけれど
逢った後が大変につらく
泣くのが運命だと前提しているところがある
文化のコードとしてそのように制定されていて
和歌を競うときにはそのようなコードに従うことが必要だったのだろう
たいていの場合、魅力的な存在はすでに、性的所有については社会的な決着が付いている
すると木村カエラが結婚して出産してもなおアイドルでいるように
一部の人は社会的性的所有コードを無視する
そこまでは行動の問題だからまだ文学にならない
無視したいけれど出来なかったとか
そんな場合に文学が発生する
リビドー放出が途中でせき止められるときに
文学が発生する
ジャンルとしては寸止め文学である
抑制するから文化になるのであって
抑制しなければ行動があり出産があり子育てがあるだけである
和歌は一部は現代の流行歌のようなもので
カラオケの時に誰かを見つめて愛の歌を歌ったり
デュエットで歌ったりするように使われたもので
その変形として、求愛の記号として使われたことあったのだろうと思う
労働歌としても、色っぽい歌も交じっていてもいい
子どもに意味を聞かれても、さあねとか言っておく
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求愛の時に
いけいけゴーゴーでは
盛りが付いているようで
なんとも格好が悪いので
辛いような言葉を並べた和歌の中から選んでみるのだろうと思う
自分で作るよりは
既にあるものを使う方が多い
どの文化でもそんなものだ
丈夫ぶりでは
ありのままの欲望や感情が表現されていて、そこが違うとも言われるのだが
たぶん
祭りの時に集団で歌うとか
お酒を飲んで陽気に騒ぐとか
そんなときの歌が交じっているからだろうと思う
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甲子園で山本リンダ歌、阿久悠作詞、都倉俊一作曲の歌などが
平気で演奏されているが
教育上、ほほえましいものとされたのだろうか
パチンコ屋の音楽とどのくらい違うのだろうか
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メロディとしてはどんなものだったのだろうかと興味がわく