やめていく圧倒的多数派は、次のようなタイプだ。

“やめていく圧倒的多数派は、次のようなタイプだ。
 まず、単純作業について、何度教えても一定レベルよりも上にはいかない。こちらの要求基準を充たすことができない。作業割付を与えても時間どおりにはそれをやれない。客が途切れるとぼーっと立っている。そして、あとでできなかった理由を聞くと、かならず「忙しかったから」と返ってくる。
 実はこのタイプの人を動かす方法を俺は知っている。怒鳴ることだ。怒鳴って、恐怖を与えると、これらの人々は動く。または罰則を与えることだ。既定の仕事(もともと自由度の高い職場なので、既定といってもそれほど要求は高くない)をこなせなかった場合に、かならず怒る。そうすると、働く。
 俺はこの作業が大嫌いだ。怒る人間のいる職場は、全体がそういう空気になる。店の内部がピリピリしていれば、雰囲気のいい店にはならない。それはほかならぬ俺がオープン当初の1年で実証済みだ。もちろん店のレベルは上がるが、接客の要となる「歓迎する空気」が絶対に出ない。その当時のことはかなり強い自己嫌悪とともに思い出されるもので、できうることなら、同じことを繰り返したくはない。それ以前の問題として「怒れば恐怖で動く」という関係性は本当にきつい。時給を払っていて、この時給でここまではやってくれという要求基準はとうぜんある。怒鳴ればできるのだ。できれば怒鳴らなくてもやってほしい。これは、構造が体罰と完全に同じだ。そこまで無理な要求基準だっただろうか。自問自答してもそうは思えない。
 できる限り気楽に、無理なら働けるというのはどういうことだろう。俺はずっとそう考えてきた。自分自身が働くのが嫌いだからだ。こうやって文章書きに費やす2時間は仕事の2時間よりもはるかに楽しい。
 その答えを俺は「自分が得意なことをやって、それをモザイクのごとく組み合わせて、店の総力を上げて、バイトに還元する」というところに求めた。まちがっていないと思う。いい店であり、いい職場になったと思う。
 先日、うちの店を「つまんないから」という理由でやめて、別のところで働きはじめたバイトの話を人づてに聞いた。どうやらその人は、世のなか的にブラックとしかいえない業種で働いているらしい。
「もうずいぶんと続いてるらしいですよ」
 その話をしてくれた店長補佐が言った。
「え、あいつが?」
「あれじゃないですかね、私も一度この店やめたときに、ほかのバイトやったんですけど、意味ない規則多すぎていらいらしたんすよ。しかもこれやれば売れるってわかりきってることぜんぜんやんないし。だから戻ってきたんですけど、この店のほうがやっぱ楽っすね」
「仕事はどっちがきつい?」
「立場が違うからなんともいえないけど、忙しいのはまちがいなくこっちっすよ。やることだらけじゃないですか」
「でも楽なんだ」
「そりゃあ、やりたいようにやれますから」
「じゃああいつは、なんでその職場のほうが続いてるんだ」
「そっちのほうが楽だからじゃないですか。そういう人もけっこういましたよ」
 そのやりとりでなるほど、と思った。
 うちの店に脅迫めいたものは基本的にない。ノルマもない。最低限の仕事、つまりレジ打って揚げ物作って、売場のフェースアップをやっていれば叱られることもない。じゃあヒマな時間はなにをやっているかというと、それぞれがPOPを書いたり、自分の担当の売場を作りなおしたり、掃除が好きなヤツはコピー機を磨きあげたり、レジを光らせたりしている。それをしてみんな「忙しい」と称する。そういう分担みたいなのができたのは、しぜんにそうなった場合もあるし、俺が「君、ほんとに掃除好きだな。苦にならないの?」「モノ光らせるのたまんないです」などのやりとりの果てに「じゃあ君はヒマな時間はそれやっててよし」みたいなかたちで任せたものもある。自主的、とまでいえば言い過ぎだろうが、少なくとも「嫌いなことはできるだけやらない」の結果として、居心地はよくなっている。俺自身、ポイントカードの獲得は大嫌いだから、パートのおばちゃんに丸投げだ(ほんとにオーナーかおまえ)。
 この根底にあるのは「時給をもらっている時間は仕事をする」というモラルだ。俺はなにも脅迫めいたことはしていないと書いた。可能な限り強制もしない。しかしたったひとつ、無言のうちに強要しているものがひとつだけあった。それがモラルだ。
 やめていったバイトは、その環境に耐えられなかった。そうしてそのうちのひとりが、最初からルールとノルマで縛り上げた業種でうまく働いている。もともと接客は悪くはなかった子だ。やりがいがある、と言っていたらしい。仕事はマニュアルの丸暗記から始まって、対応も決まっている。そしていかに押し込んで契約を取るかが勝負らしい。もちろん歩合給だ。
 俺にはこれが、体罰の延長線上(あるいは手前)にある構造に見える。そしておそらくは、そうしたものは常に必要とされている。なにしろ俺は、あまりに多くの「怒鳴らなければ動かない」事例を見過ぎた。もちろん、読む人はこのことを俺の指導力不足だとみなしてもかまわない。本当はまだやれることはあるのに、それを実行しないで体のいい逃げを打っているだけだろうと、そう思ってかまわない。原理的には俺もそうだと思う。
 しかしこういうことは「どこまでその人の内部に立ち入るか」ということと引き換えの部分がある。おそらくその人の全存在を受け止める気があれば、逃げを打つ必要はない。しかし俺は親ではない。仕事という前提において引き受けられる人間の部分には限界がある。その場合、別の職場で働くほうがいいだろう。もしそこまでやってしまうのであれば、それはもはや自主性の搾取と呼んでもいい。そして程度の差はあれ、俺はすべての従業員に対してそれをやっている。口に出していないからといって圧力が存在していないわけではない。その集団が同じ条件で動いている場合に、そうでないものにかかるのは同調圧力と呼ばれる。
 こうやって考えていった先にあるのは、つまり「労働は搾取である」というどこかで聞いたような言葉になるだろう。しかし俺はそう信じることは「許されていない」。なぜなら、俺は現実に店を経営し、バイトを使い、そして利益を出して自分も食っていかなければならないからだ。俺は思想家ではない。自分内部の葛藤など自分だけの問題だ。俺は「バイトにとって居心地のいい職場を」というお題目のもとに、陰ではだれかを切り捨てている。俺にそのつもりがなくても、現実にそうなっている。俺がやるべきことは、この現実という与えられた条件のなかで、最善を目指すことだけだ。
 そして、最善は実現しない。それは静止状態だからだ。社会が動いているのである以上、最善も動きつづける。それゆえに、永久に考えつづけるほかない。
 この、現実とやらのなかで。

2017-02-25 10:50